映画・テレビ

2010年3月17日 (水)

安全地帯

パッとテレビをつけたら安全地帯が6年ぶりに活動再開とのこと。

なんだかなつかしい。

玉置浩二はいろいろお騒がせしているけれど、やはり年をとっても歌はうまい。声は衰えを知らず、むしろ若い頃のカドがとれて一層つやのある声になってきたような気がする。

あれだけ私生活でフラフラしているように見えても、本業では変わらず一流の腕前を披露できる。まったくうらやましい限りである。

才能とはそういうものなのかもしれない。

僕みたいな凡人は、天才がやらかす激しい起伏に富んだ人生を歩むことはなさそうだけれど、それなりに仕事では毎日コツコツ静かに積み上げていくものがあって、家庭ではしっかり家計と栄養を管理してくれるパートナーがいて・・・

それはそれでスーパースターにはない幸せなのかもしれない。

玉ちゃんの唄う「ワインレッドの心」を久しぶりに聴きながらそんなことをふと思った。

2009年3月11日 (水)

ノーカントリー

久々に戦慄が走る作品だった。

バイオレンス映画であるから、決して明るい気持ちになれる映画ではない。しかし、演じる俳優陣の迫力に押され、最後までハラハラしっぱなしだった。

冷徹な殺し屋を演じたハビエル・バルデムというスペイン人の俳優の存在感が群を抜いており、「本当にこんな人間が世の中にいるのだろうか」と思うくらいであった。

感情というものがまったく感じられず、「非情」というのはまさにこういうことを言うのだろうというくらい凄まじかった。

脚本もそのイカレた感じがよく出ていて、独特のレトリックで殺し屋の「哲学」が語られていく。そのナンセンスさがまたこちらをぞっとさせる。

これだけの俳優をそろえたからこそ、表出できた迫力なのだろうと実感した。

トミー・リー・ジョーンズも年をとったが、味わいのある役が板に付くようになったということだろう。だからこそ回想シーンに真実味が生まれる。

ハビエル・バルデムは今後も要チェックである。

2008年4月20日 (日)

マイケル・クレイトン

邦題は「フィクサー」。原題は「マイケル・クレイトン」。

こちらを新宿武蔵野館にて鑑賞。

久々の映画館だったけれど、いつ封切られたのかも知らなかったため、意外と最近の映画だったようで、整理券順という人気ぶり。

これまた久々に前から2列目で上目づかいに画面を注視することとなった。

そういうときに限って内容は込み入っていて、それこそ注意して観ていないと筋が追えないストーリー展開だったりする。

よって、首がつらくなる・・・。

まぁ、そんなことはどうでも良いのだけれど、注視できるくらい飽きさせない内容だったことは確かだ。

社会派サスペンスだからただ物語の内容に身を委ねているだけではダメで、観客も一緒に考えながらストーリーを追うことを要求されるが、弁護士、製薬会社、その家族関係、それぞれの相互の関係性、これらが複雑に絡み合っており、なかなか瞬時に理解するのは難しい。

緊迫した場面が多く、常に"lose his/her temper"ないわゆゆるテンパった状態が続くため、英語も早口でまくしたてるような会話が続く。

結末はうまくできすぎているような気もしないではないけれど、エンターテインメントとしては楽しめる内容ではないだろうか。

ただ、一緒に考える気力のないお疲れ気味の人にはおすすめしない。

ジョージ・クルーニーはここ数年どんどん男としての味わいが深くなり、同性ながらもあのような歳の取り方をしたい、と目標にしたくなるくらい演技・人間味とも熟度を増している。

「オーシャンズ~」、「シリアナ」とともに、今回も複雑な問題に巻き込まれながらも、人生経験の豊富さを武器にストイックな戦いを挑む主人公を見事に演じている。

2007年12月14日 (金)

今一歩

呉清源 極みの棋譜」を新宿武蔵野館で拝見。

囲碁を知らない人にとっては何が何だかさっぱりな映画だろうと思うけれど、少しでも習ったことのある人なら避けては通れない巨星の生涯を描いた作品である。ちなみに当の呉清源本人は90歳を超えて今なお健在である。

改めて呉清源という棋士の人間的な大きさを感じずにはいられなかった。布石の考え方、石同士がいかに調和を保って存在するか、といった囲碁を志す者万人にとってのバイブルのような理論を独自に展開し、生涯をかけて今なお探究し続けている呉氏は、今や「生きた伝説」であるが、彼の「大きさ」はやはりスクリーンの中に収まりきる器ではなかった、というのがどうも正直な感想だ。

配役はむろんベストを尽くした結果こうなったのだろうと思う。チャン・チェン、柄本明、松坂慶子・・・。当代きっての名優ばかりである。

しかし、役作りにかける時間がもっと必要だったか、と思わざるをえなかった。

初めて囲碁に接する人が見たら違和感ないのだろうけど、碁の世界に一時期どっぷり浸かってしまっていた僕には、囲碁に精通していない人が演じていることが一目瞭然なのであった。

それは僕が習っていた子供教室で何十人ものプロ棋士の背中を見てきたから、ということがあるのかもしれない。

こればかりはその場に居合わせて、「空気感」というものを皆様に肌で感じていただく以外にないのだけれど、プロ棋士が真剣勝負をしている時の表情、石を盤上に置くときの音、打ち方、どれをとってもものすごい迫力である。

ピリピリした緊張感とともに、キーンと凍てついた冷凍庫の中の氷に一瞬ひびが入ったような鋭敏さがときおり胸をかすめる。ボヤっとしていた小学生の時分でもいまだに鮮明な記憶で残っているのだから、どのくらいのものか想像はしていただけることだろう。

そうした体験を考慮すると、「今一歩・・・」となってしまうのだった。

まぁ、こればかりは仕方ない面もある。リアルな呉清源にかなうわけないのだから。

逆にリアルなプロ棋士が演じたところで、映画として成り立つはずもなく。単なるドキュメンタリーになってしまうだろう。

難しいところである。

対局に使われたロケ現場、呉氏の孤独感をしみじみ描き出す風景、こうした演出は素晴らしかったし、時代背景もよく描かれていたと思う。

もう少し「棋士」という人種の人間的な迫力、空気感みたいなものが表出されていたら、もっとよく囲碁の世界を観客にわかってもらえたのではないか、と少々残念になるのだった。

欲を言いすぎた。

前述したようにスクリーンに描く限界というものはあるのだろうし、リアリティを追求すれば映画として素晴らしいか、というとそれも一概に決めつけるのは難しいのかもしれない。

批評し足りない部分もあるけれど、囲碁というマイナーな小宇宙をNHK的、あくび的な編集に陥ることなく、「映画作品」としてきちんと筋道立てて表現してくれた人がいた、ということ。そのことにまずは大きな賞賛を与えなければいけないのかもしれない。

2007年10月 6日 (土)

PLANET TERROR IN GRINDHOUSE

"プラネットテラー・イン・グラインドハウス"を池袋のレイトショーで観てきた。

リンクするのが憚られるくらいグロテスクな描写があるし、かなりきついブラックジョークが飛び交うので、嫌いな人はとことんこの種の作品はだめだろうと思う。

まぁ、ストーリーを追うのが無意味なのは言うまでもないし、話としてはB級アクション以外の何物でもないのだけれど、こういう「くだらない」lことをまじめな顔して演じきるのがやはり本物のアクターだろう。ターミネーターのマイケル・ビーン、それからマーリー・シェルトン、カート・ラッセル。さらにはブルース・ウィリスまで。実に豪華なキャストだ。

一流の役者どもが顔色一つ変えずにブラックジョークを飛ばす。まじめな顔で下ネタを連発する。あまりに真剣だから、逆に観客は笑いをこらえることができない。

前に座っている白人の男性は終始ツボにはまったらしく、笑いが止まらない様子であった。タランティーノ&ロバート・ロドリゲスしてやったりというところか。

以上、あくまで個人的な感想である。

基本的にあまりお勧めしない。ほのぼのした映画が観たい方は”ミス・ポター”のほうがまだ精神衛生上良いだろう。おそらくこの作品がやっている映画館で同時上映されている。

2007年6月15日 (金)

五感使っていますか?

先日、深夜のニュース番組で龍の子学園の特集を見た。

ろうの子供たちが通う学校なのだけれど、カメラに映る子供たちの姿はどの子も非常に生き生きとしている。体中からエネルギーが皆みなぎっており、常に何かを求め、伝えようとコミュニケーションの交差点が幾重にも連なっている。

僕が普段仕事先としてお邪魔しているのが、いわゆる「健常者」ばかりが集う学校だからだろうか。雰囲気が違うのは当然だ、と決め付けるのはたやすいが、それにしてもじゃあなぜ「健常者」の子供たちのほうが「元気がない」ように見えてしまうのだろうか。

頭でっかちにならず、体全体で表現し、交流を図る。それがそのまま生きることへつながる。子供たちの「生きる貪欲さ」には心底から感動してしまう。

五体満足の人間のほうがかえってコミュニケーションを自ら閉ざしてしまっているのではないか、とさえ感じてしまうほどである。人間として使えるツールを10のうち5しか実は使えていなかったり・・・。

また、公立の聾学校では口話法を身に付けさせるための教育を行っているところが多いということなのだが、龍の子学園は日本手話をひとつの言語として位置付け、その上で「日本語」の習得を目指す、という立場を取っている。

初め僕にはしっくりこなかったけれど、少し考えればわかることだ。生まれながらのろうの子供たちにとって、手話は母国語といってもよい存在なのである。

そしてこれが重要なことだが、手話=日本語では決してないのである。

日本語の「海」という漢字の意味内容は、彼らが手話として身につけている意味内容の「海」とは一致しない。それは教師がきちんとその一致をはかってあげないといけない。

つまり、ろうの子供たちにとって日本語は「外国語」なのである。

だからって、別に彼らにとってそれはハンディキャップでも何でもないだろう。僕が中学1年に初めて英語を習い始めたときの感覚とさほど変わらないはずである。

ただ、日本でもしこの先生活していくとなったとき、やはり手話だけでは限界があることは確かである。交通標識など、市民全員が共通認識として把握しておかなければならないことが社会には無数にあるからである。

その一つひとつを貪欲に吸収しながら、日々成長していく子供たちの姿を見ている親の姿もまた生き生きとして見えたのは言うまでもない。

最近は脚色の多いテレビもよくあるけれど、なんだか感動してしまった或る夜であった。

人間何が幸せかわからないものですねぇ

2007年5月27日 (日)

人生は長い…のかな

いつか読書する日」を渋谷のシネマ・アンジェリカにて。

起伏に富んだストーリーではなく、淡々と流れていく映画。

落ち着いてじっくり観れる分、一つひとつのカットの行間を考えさせられる。

主演の田中裕子、岸部一徳のほか脇役も実力派で固めており、作品が浮つくことは一切ない。

単なる純愛映画で留まらず、何十年という人生の長いスパンの中でひとりの人間が生き、考え、涙し、どういう息遣いをしてきたか、そういう機微までていねいに演出しているところが幅を与え、真実味をこちらに伝えてくれる。

50歳独身のキビキビしたストイックな女性を演じる田中裕子が抜群に素晴らしく、改めて言うまでもないけれど、「その人の魅力に歳なんて関係ないなぁ」と感じさせる。

対照的に感情を押し殺してわざと平坦さを強調する岸部一徳もうまく映画の雰囲気にはまっている。

牛乳配達と読書の日々。朝早いのはダメだけれど、ストイックな生活には憧れる。なかなかそこまで自分に厳しくなれないのが実情だけれど。

毎日見る朝日が常に新鮮なような、そういう清清しさを表情に浮かべ、キビキビ仕事をこなす。

生きている証って何なのか、考えるだけで難しいけれど、本当は夜に考えることではないのかもしれない。

夜になったら寝る。朝日を見て新たな気分で一日頑張る。これだけでいいのかもしれない。

明日は早起きしよう。

2007年1月15日 (月)

ストロベリーショートケイクス

最近は日本映画のほうが好調なように思える。

ハリウッドは既存の型を打ち破るのに苦労しているような印象をどうしても受けてしまうのである。

いかようにでも映画は撮れる、ということ。

それを改めて感じさせてくれる一本。

ストロベリーショートケイクス

池脇千鶴は「火消し屋小町」の消防士役でかなり僕の中でポイント高めだったのだけれど、今回の役も自然体だがなかなか味があって良い。

それぞれ登場人物の人生観や哲学が浅く広く終わることなく、深く吟味されながら進行していくのが、こちらとしても人物の内面をじっくり味わうことができ、好印象である。

それはセリフ、つまり言葉の一つひとつが吟味されて発せられているからだろう。

何気ない日常の中の一言がズシーンと重みを持つ。

「神様っているのかな?」

とか、

「あなたはお母さんいますか?」、

「愛の形って複雑っすね」

など、唐突だがドキリとさせられる言葉を事も無げに登場人物たちは発していくのである。

描写は淡々としているが、ロングショットが多く、セリフ同士の間がうまく使われている。

沈黙が言葉の重みを増させるのだろうか。

ストーリーはどうということないのだけれど、不思議な言霊に囲まれた作品である。

また、部屋の調度品や神棚など、それぞれの人物の個性が生かされた粋な独り暮らしぶりが印象に残る。自分のそれと比較すると面白いかもしれない。

独り暮らしの中の「独りの時間」、「自己との対話」・・・

彼女たちの内面の葛藤、苦しみ、、

大変なのはわかっているけれど、そこにヒューマンな魅力を感じずにはいられない。

僕だけだろうか?

2006年10月 1日 (日)

LOFT

「ドッペルゲンガー」の黒沢清監督ということで、LOFT(ロフト)を観てきた。

期待を裏切らない内容だったと思う。

中谷美紀はこの前もお目にかかったばかりだったから、新鮮な感覚にはなれなかったが、豊川悦司は見事にハマリ役をやっていた。

映画の流れ・ストーリーは取り立てて述べるまでもないんだけれど、やはり映像表現というか、脚色というか、独特のカットや間合いが絶妙である。

だから、単なるホラー映画にはない、何か哲学がある匂いがするのである。

LOFTはおそらく世界的大ヒットにはならないだろうけど、今後も何かをやってくれそうな、次はどんな映画を撮るのか、楽しみになる黒澤清監督である。

2006年6月24日 (土)

松子の一生

嫌われ松子の一生」を観てきた。

「下妻物語」の中島哲也監督作品ということもあって、かなり楽しみにしていた。

普段の日常が秩序に満ちているからなのか。なぜか私はこの手のアナーキーでシュールな映画が好きだ。

下妻物語同様、個性の強い女性が主人公で、アンダーグラウンドな世界を描きつつ、ライブ感のあるエネルギッシュな映像が素晴らしい。

「嫌われ松子」と題するくらいだから、決して明るい結末ではないし、彼女が人間的に「嫌われてしまう点」について論じても仕方ないのだが、私に松子の生きた人生について素晴らしい人生だったとか、よくない人生だったとかもちろん言えるわけがない。

ひとつ言えることは、松子は彼女自身の人生を全うした、ということだけである。

映画全体を通じて、その「全う」という言葉の重みだけは、ズンと伝わってくるものがある。

それは松子がその時代、その時を自分なりに一生懸命生きてきたからではないかと思う。

確かに結果として教職を辞することになり、数々の男にフラれ、殺人を犯して服役することにまでなってしまったけれども・・・。

しかし、人として生きるとはそういうことなのではないか、と思った。

つまり、人生何がどこで起きてどうなるかわからない、ということである。

松子という女性が善人か悪人か、なんてことは判断できない。

ただ、彼女は人より少し不器用なだけなのである。おそらく・・・。

それが松子の人生のダイナミクスさとサプライズに満ち溢れている理由だろう。

と、なるべく冷静に振り返ってみたけれども、やはり「松子はかわいそうになぁ」と共感と同情を覚えてしまう自分もいる。

観ていて何度切なくなったことか。

人間の喜怒哀楽、醜さ、裏と表、本音とタテマエ・・・

あらゆる要素が凝縮された濃厚な人生ムービーである。